南京大虐殺事件と検閲

検閲との闘い 

日本軍は上海攻略後、一路、蔣介石が延安へ逃避した後の南京市へ入城し、戦意を半ば喪失していた国民党軍を殲滅し、生き残った多数の兵士や捕虜そして逃げ遅れた民間を無残に殺戮した。銃殺や銃剣で殺した死体を、次々と大きな穴に放り込んだりしたため、未だ虫の息で生存していた者も生き埋めとされたのである。近くを流れる長江にも、次々と殺戮した軍人や市民を投げ込んだ。この「南京大虐殺」後、延安で八路軍を率いる毛沢東と国民党軍の蒋介石は、「抗日」の一点で共闘戦線に合意した。現地の人々の犠牲の上に断行された、朝鮮併合、満州国家樹立、日中戦争そして真珠湾奇襲で米国参戦を招いた太平洋戦争と、所謂、長きに渡った「15年戦争」にもその間、幾度となく相手側との「講和」の機会はあった。だがその都度、和平を望む「ハト派」の提言は退けられ、傲慢不遜な「好戦派」の言い分に屈した結果、国内外のすべてを失い、沖縄、広島、長崎、そして制空権皆無の本土の大都市のみならず重要拠点の存在する中小都市まで、昼夜を分かたぬ焼夷弾投下の焼土作戦で焼けつくされ、「無条件降伏」を余儀なくされた。東京などで提灯行列までし祝賀ムードに浸っていた一方、南京大虐殺を報道した新聞は皆無であった。これは徹底した報道管制が敷かれていたためだ。また日本政府・軍部は、日中戦争を継続するため、「国民精神総動員運動」を開始し、天皇を神格化し、軍国主義の推進に邁進していった。反戦演説のあった1940年12月には、内閣情報部が内閣情報局に格上げされ、新聞、出版、映画や演劇などに対する検閲が強化された。結果、元老の自由は大幅に制限されていった。東京日日新聞は1944年9月、検問課を創設している。当時の編集部長・岩佐直樹氏が戦後、日本新聞協会の聞き取りに対し、創設の経緯を語っている。編集整理部には以前から検閲で記事が差し止めにならないように「作戦帳」があった。一種の閻魔帳で差し止めされた記事すべてが記録されていて、それを見ながら記事を書いていた。1931年の満州事変以来、社が内務省や陸海軍、外務省などから指示された掲載禁止や注意事項は1940年までに千数百に達し、いちいち閻魔帳を見ていたのでは間に合わず「生き字引みたいに頭の中に入れておく専門の係りとして検閲課が作られた。新聞社自らが「国の意向」汲み取って、自らの手足を縛るための体制を整えていった、と。検問課は後に検閲部に昇格されている。毎日新聞社には、検問部が国からの指示やそれへの対応をまとめた「検問週報」が残っていて、それによると農政関係では1943年4月の米価値上陳情、賃金値上要求運動の状況は不可、国民生活の圧迫であるなどの不平不満記事も不可。これでは、国民が知りたい生活の見通しは、殆ど書けなかった。一方で、新聞社は生命線である情報を独自に入手するための努力を続けていた。1941年12月の太平洋戦争開戦で、毎日新聞社は海外情報を公的に入手する手段を失った。海外通信社からの配信が受信できなくなり、特派員も通信事情の悪化などで、ほぼ活動停止状態となった。そこで、東京本社に秘密裡に作られたのが、女子トイレを改造した「欧米部別室」だった。ここで得られた情報は、ストックホルムチューリッヒなどの中立国からの記事の体裁を取って紙面を飾った。毎日新聞社の社史「毎日の3世紀・新聞が見つめた激流130年」によると、開戦当初から禁じられていた短波ラジオを24時間体制で傍受し、海外情報を入手していたため、社の幹部は戦局の推移や世界情勢に関して正確な認識を持つことが可能となっていた。社内では何時しか「便所通信」と呼ばれ、1945年8月15日の終戦まで続いていた。第75回帝国議会中の1940年2月2日に民政党斎藤隆夫議員が、衆議院本会議で代表質問を行った。軍部を批判し、議員除名処分を受けた「反軍演説」である。斎藤は勃発から2年半となり、多大な犠牲が出ている日中戦争をどう終結させるか、その見通しを問いただした。「ただいたずらに「聖戦」の美名に隠れ、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く同義外交、曰く世界平和とかくの如き雲を掴むような文字を並べ立て、千載一遇の機会を一誌、国家百年の大計を誤るような事がありましたならば、現在の政治家は死しても、その罪を滅することは出来ない」と大局観を持たない軍部を批判したのである。この演説は陸軍の怒りを買って、後半部分が議事録から削除され、斎藤は3月7日、議員除名された。この出来事を機に、議会は軍部の暴走の前に声を上げる事さえ出来なくなった。さて今、五輪には莫大な予算を費やした挙句、コロナ感染まん延を前に、右往左往している菅(安倍)政権の姿と共通する部分が多々あるように感じるのは私一人だろうか。(毎日新聞出版「清六の戦争」より一部参照済)