黒い雨のトマト・広島原爆投下!

黒い雨のトマト:

小塚綾子さん(93歳)は、1945年(昭和20年)8月6日、広島の原爆投下を奇跡的に無傷で生き延びたが、その後、生きた生活は苦しみに耐える連続だった。「広島生まれの私は、小学1年生で父を亡くし、母は鋳物工場で真っ黒になりながら、私を育ててくれました。家の裏に小さな畑がありました。夏になると母はトマトをもいで、滋養があるんじゃけえと、病弱だった私に食べさせようといました、私はトマトが嫌いでぷいと顔を背けていましたが、母は毎年作り続けていました。16歳の8月6日、8時15分のことは、瞬時も忘れられません。宇品港(現・広島港)にある船舶司令部の朝の朝礼が終わりまして、木造2階建ての事務所へ上がったとたん、ピカーと、それこそマグネシウムの閃光を顔につけられたような衝撃に吹き飛ばされたんです。業火を逃れて家にたどり着いたのは3日目の朝でした。天井のなくなった家で、母は黒い雨に打たれ、化け物のように立っていました。私が帰ってこないからと、焼けた枕木の線路伝いに爆心地を探しあるいていたのです。ぎゅっと抱きしめられたら、やっと、お腹が空いていることに気付きました。母は裏の畑に飛んで行って、水たまりから何か二つ三つ拾い上げたんです。綾子、ええ物があったよ、と私にに見せたのは、コールタールを溶かしたような真っ黒なトマトでした。夢中でかじりました。ああ、美味しい。お母さんと一緒に食べました。ところが、その晩から2人とも、高熱と下痢がひどくなり、激しい痛みも伴ってきました。母と親戚の牛小屋を寝床にしました。どの家も被爆者を看病していました。可哀想に、助かるけえ、元気出して。そう言うてる間に、目から鼻から口からウジ虫が湧くんです。私も取ってあげたけど、取っても取ってもウジ虫が湧いてきます。そして2日か3日したら、コトット亡くなります。もう悲惨ですよ。こんな地獄ないですよ」。結婚後も、彼女は主人の家族には被爆したことを隠していた。黄疸が出て寝込んでいると、広島からえらい嫁をもろうてきたもんや、と言われ、1947年に静岡から京都に移った。母は寝たきりで、京都の空気は美味しいなと喜んでいたが、3か月後に、亡くなった。「私は、母にすがって泣きました。私も体にあざが広がるし、歯茎から血が出るし、髪も抜けて、寄りかからんと座ってられへん。そして8月6日が来るたび、奈落へ落ちる気持ちでした。娘がお母ちゃん、なんで泣いてるん、と聞いてきても子供への差別を恐れ、被爆したとは言えませんでした」。その後偶然、創価学会第2代会長の「原水爆禁止宣言」(核兵器を使用する者は、ことごとく悪魔である)を聞く機会を得た彼女は、高校生になっていた娘に、服をめくって被爆のあざを初めてみせたのです。「母ちゃんな、これから被爆者いうことを言うて言うて言いまくるから」と告げた。「被爆の実態を隠して、平和活動委なんか出来へん。あの日、キノコ雲の下で何が起きたのか。どの人もこれ以上焼かれることのないぐらい黒焦げになっていました。助けて!と私にすがりつく女性は全身焼け爛れ、背中の赤ちゃんには首がなかったのです。川は遺体の筏で、町は死臭に満ちていました。原爆は人間の死に方が出来んわけです。悪魔の兵器兵器なんですよ。時とともに、母の愛情を感じます。牛小屋で母と高熱で倒れていた時、母はふらつく足で山へ入って、ドクダミを摘んだんです。煎じてくれたのに、私は飲もうとしなかったら、それまで叱られた試しもなかったのに、その時だけは、飲みなさい!これ飲まなにゃあ、生きられんのじゃけえ、と𠮟りつけられました。体を起こして起こして、お椀を口に運んでくれました。優しい母でね。実は義母なんです。生みの母やないんです。自分の命に代えてでも、私を生かそうとしてくれました。その母に何の恩も報じることが出来なかった私は、核兵器のない世界平和を祈るのみです」。