安倍晋三の国葬に異議あり;対米追随路線が条件だ!

安倍晋三国葬は何故、誰が企図したのか?

統一教会に貴重な財産を搾り取られた女性信者の息子に狙撃され死亡した安倍晋三元首相の葬儀を国葬にすると、早々と閣議決定した岸田総理は自らの意思で行ったのだろうか。過去、我が国の首相で国葬に付されたのは、吉田茂だけである。世間での一般的イメージは「吉田茂アメリカと対等に渡り合った宰相」とされているが、現実には全く正反対の政治家だった。表向きは対等を」装いながら、ただアメリカの言いなりで、言わば戦後の対米対路線の基礎を作った人間だった。終戦直後の占領時代でも、重光葵は「米軍の完全撤退」を主張して米国と交渉した。困難な時代にも拘わらず、日本の国益を第一に考えて主張した宰相だった。一方、占領時代に対米追随を徹底的に推進したのが吉田茂である。世間では米国と対等に渡り合った名宰相と思われているが、このイメージ作りをしたのが、高坂正尭の著書「宰相吉田茂」だ。この本で彼は「吉田はマッカーサーと対等の立場を自然にとることが出来る人物」「吉田は何よりも日本の復興のことを考えていた」と述べているが、この評価は正しいのか。だが吉田本人は、著書「激動の百年史」で「鯉はまな板の上に載せられたらびくともしない」と記しており、また外務官僚を集め「戦争に負けたからには敗者として潔く対処し、戦勝国占領政策には誠意をもって協力することが肝要である」と訓示している。米国が吉田茂を高く評価し、岸信介60年安保で失脚させた後、吉田に「もう一度、首相をやれ」とまで進言したのは、吉田が米国にとって最も都合のいいポチだったからに過ぎないのだ。高坂は米国のハーバード大学に留学しており、吉田茂をどう思うかと米国で聞けば「素晴らしい宰相だ」との答えが返ってくるのは当然だ。米国との単独サンフランシスコ条約発効に伴い、戦犯の政治家や将校ら25万人が19481224日に釈放された。岸は4年後に実施された戦後初の衆院選挙で当選し、自主憲法制定・自主軍備確立・自主外交展開を掲げた。ただ、岸はこの段階から既に明確に「自主路線」を志向していた。そして、対米協調路線を基本とする吉田茂に反発して党を割った。岸は改訂された安保条約に、将来の日本が自主自立を選べるような条項を入れた。60年安保改定で、この条約は10年を過ぎれば「1年の事前通告で一方的に破棄できる」との文言。自動継続を絶ち一度破棄すれば、条約に付随する日米地位協定も破棄される。将来、強靭な意思を持つ自主路線の政治家が現れれば、安保条約を破棄もしくは一新することは可能なのだ。新たに誕生した鳩山内閣は、ソ連との国交回復を政権最重要課題とすると同に、日米間安保という不平等条約改善を目指した。先ず「防衛分担金」の負担軽減を掲げた。当時の日本の国家予算は1兆円以下で、在日米軍維持費に毎年550億円もの支払を無抵抗に甘受していた。鳩山政権の日本代表の重光葵外相がアリソン駐日大使と交渉し「分担金を178億円に減額」との日米合意を勝ち取った。鳩山内閣の次の目標は、駐留米軍の削減だった。だが、米軍の削減は分担金減額に比べ遥かに難題だった。そもそも米国が日本を占領した目的は、日本国内に自由に軍隊を置くことで、吉田茂1951年に密室で調印した「旧安保条約」第1条は次の通り規定している。「合衆国陸軍及び海軍を日本国内及びその周辺に配備する権利を、日本国は許与し、米国はこれを受託する」。米国には軍隊を日本国内に自由に配備する権利があるということ。鳩山政権の交渉団は米国務省でダレス国務長官と厳しい交渉の末「現行の安全保障条約を別の条約に置き換える」との合意に達し、外交的勝利である。安保条約は5条のみで抽象理念が述べられているが、本丸は、条約に付随する「日米行政協定」で29条からなり、分担金、裁判権など具体的に規定されている。この中で「日本国及び合衆国は。前記の施設及び区域を自由に設置できるが、同時に返還については合意することができる」と述べているのだ。これは、嫌なら合意しなくて良いということ。岸退陣後の首相・池田勇人は新たな不平等協定である「日米地位協定」の改定に取り組むことはなかった。彼は対米追随路線の政治家であり、CIAや駐日駐日米大使から、日米協力の忠実な信奉者と評価されていた。また、三木武夫も米国追随者でありその後、現在に至るまで、政界は米国追随派が支配してきた。マスコミ報道の世界も同様で、米国と新聞社幹部との関係に関して、歴史学者シャラーは自著「日米関係とは何だったのか」で、マッカーサー駐日大使が、日本の新聞社の主筆を恫喝する様子を記述し、日本の新聞社は「CIA支配下にある報道機関」と明確に述べている。事実、各新聞社の主筆や論説主幹らが、マッカーサーの意向を受け、途中から安保反対者を批判する側に回った。当初、日本の自主自立を掲げ、安保反対だった新聞社が、米国に感謝せよとまで主張を変えたのは唖然とする事実である。自主路線を志向する記者たちは粛清され、中央に残ったのは対米追随派の人間ばかりとなった。戦後、リベラル勢力の中心的存在だった朝日や毎日新聞社も組織が変質し、紙面の性格も変わっていった。